■ 感染症を理解するために <ダイジェスト版>
Copyright (C) 福永一郎 1994
感染症を理解するために <ダイジェスト版>
この小文は,1994年8月,横浜でのエイズ国際会議の応援シリーズとして,
ニフティーサーブ内のエイズフォーラム(FAIDS)上に連載したものです。
ニフティサーブのライブラリでは,ダイジェストと第1集との両方で,1997年
4月現在1409件の参照(ダウンロード)を稼いでおりまして,FAIDSのライブ
ラリでも人気上位にランクされているものです。
保健体育教室(大修館書店発行)225号16-18ppにもこの小文が紹介(転載)
されていますので,引用文献としてお使いください。
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:感染症を理解するために <ダイジェスト版>
JINNTA
NIFTY-SERVE PDF01076
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0.プロローグ
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とかく誤解を生じやすいHIV感染症の知識ですが,疫学という科学を使って,明
快な説明を考えてみました。ご笑覧ください。
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1.感染症の成立とその対策
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感染が成立するためには,1.感染源 2.感染経路 3.感受性者 という3つ
が全て必要です。このどれか一つが欠けても,感染は成立しません。
「感染源」とは,病原体を含むものをいいます。HIV感染症の場合は,HIVを含む血
液,精液,膣分泌液,母乳またはそれが(十分感染力をもったウイルスが)付着して
いるもの,たとえばウイルス血に汚染された注射器,膣分泌液のついた性器具などで
す。なお,この「感染源」とはあくまでも物質であり,感染した人を意味するもので
はありません。
感染源にかかわる要因としては,病原体の量,毒力,生命力,病原体が含まれてい
る媒体の性質などがあります。「蚊」や「唾液で感染しない」のは,ウイルスが含ま
れていても,「感染源」として成立しないからです。
「感染経路」とは 感染源が新たにうつる人(感受性者)にゆくまでの経路をいい
ます。これには,接触による感染,飛沫感染・飛沫核感染(いわゆる空気感染),塵
埃感染,などがありますが,HIV感染症は,直接感染源が接触して新たにうつる人に到
達する「接触感染」の経路のみで,他はありません。
「感受性者」とは,新たに感染を受ける人の,からだの抵抗力(免疫力)のことで
す。代表的な対策は,ワクチンで,たとえば,ポリオワクチンを接種された人は,ポ
リオにたいして免疫があり,感受性者にならないので感染が成立しない,といえます。
なお,感受性者は,あくまでも生物的な抵抗力を意味しますので,巷間ささやかれ
ているいわゆる「ハイリスクグループ」なるものとは関係がありません。
新たな感染の防止には1.感染源 2.感染経路 3.感受性者 のどれか一つが
欠けても,感染は成立しないわけなので,このいずれかを絶てばよいことになります。
現状でのHIVの新たな感染の予防は「感染源対策」と「感染経路対策」であります。
この分類をすれば,「誤解」を産まずに「系統的」に理解でき,助かります。
「感染源対策」は,病原体を含む「物」に対する対策であります。たとえば,消毒は
これになります。HIV感染症の場合は,ウイルスを含む血液の消毒,歯ブラシの共用を
しないとか,感染月経血,感染精液を含むコンドームの適切な処理などということにな
ります。
もちろん感染源がない部分(唾液,皮膚など)が接触しても感染しませんので,一緒
に風呂に入ったり,トイレを使ったり,鍋をつついたりしても感染は成立しません。
要は,ウイルスが十分にある血液,精液,膣分泌液の含まれているものに対する処理を
適切にするということです。なお,HIVをもっている「人」は「感染源」ではありませ
んので,「人」にたいする対策(たとえば行動の制限など)は全く不要です。
「感染経路対策」は,もっとも重要な対策になります。HIVは接触感染ですから,感
染経路対策は接触しないということになります。従って,コンドームの使用は,感染
源(精液,膣分泌液)が感受性者(パートナー)に直接接触しないためのものですか
ら,有効な対策ということになります。なお,性交をしないということもここになる
わけですが,正確にいえば感染源(精液,膣分泌液)が感受性者(パートナー)に直
接接触しなければ感染経路は成立しませんので,SEXをしてもゴムの膜があれば感染
経路にはならないということです。汚染注射器を「使用しない」ということもここに
入ります。
それ以外の経路(空気感染など)では感染しないので,日常生活では感染する機会
はごく特殊な場合以外にはないといえます。
「感受性者対策」は主にはワクチンの開発です。残念ながら,現在はこの対策はと
るべきものがありませんが,将来が期待されます。
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2.感染と発病
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感染症でとかく誤解されるのが「感染」と「発病」ということです。麻疹(はし
か)のような病気では,感染しますとほぼ発病しますので,「はしかがうつった」
ということははしかという病気になることを意味します。しかし,結核のような病
気では,感染しても発病しないことがほとんどです。つまり,身体の中に菌がいて
も,病気ではないということがいえるのです。身体の免疫力が低下してはじめて,
結核という病気が起こってくるわけでありますから,「結核」の真の原因は,結核
菌と言うよりはむしろ,周りの生活環境や生活習慣(疫学では環境要因,宿主要因
という)ということになります。
このような不顕性感染ともいえる感染症はたくさんあります。
したがって多くの感染症は,「感染を予防する」ことと,「発病を予防する」と
いう2段階のいずれかでブロックできれば発病はしないと言うことになります。
HIV感染症について言えば,感染が成立してもすぐ発病するわけではありません。
ACという時期があります。また,感染したらかならず100%発病するかどうかも本
当はわかっていません。したがって,HIVに感染した人でも,ACの状態である限り
は,「発病していない」と言うことです。もちろん,これは医療やケアが必要ない
ということではありませんので,誤解のないように。むしろ積極的に必要とします。
予防投薬という概念がありますが,これは「発病を防ぐ」(HIVの場合は遅らせると
いうことも含むのでしょうか)ために行われるわけであり,治療の一つではあるの
ですが,この投薬を受けている間は「健康人」ということになります。HIV感染症も
予防投薬で長期の発病抑制が出来るようになれば,いいのですが・・・
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3.「予防」っていったいなあに
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「予防」という言葉がよく使われます。ところで,この「予防」ということばは,
一般には「病気にならないこと」と理解されています。特に感染症の場合は「感染」
と「発病」が混同され,とにかく「感染しないこと」と曲解されている節もあります
(この誤解が往々にして感染者の排除につながるのですが)が・・・
実は「予防」という概念は,ものすごくひろーい概念でありまして,クラークとレ
ベルという人たちが,病気の辿る経過(病気の自然史という)から考えだした疾病予
防の5段階という考え方があります。それは大まかに言うと次のようなものでありま
す。
1.「発病」する前の段階でブロックすること
これを大きく一次予防とよんでおります。これには,「健康増進」という段階と,
「特殊予防」という二つの段階があります。例としては「がん」が分かりやすいので,
それで説明しますと,「がん啓発,健診,診療施設や制度の整備」「マンパワーの整
備」「専門家の養成」「健康づくり」「がんの知識の普及」など基礎的なものは「健
康増進」に,「禁煙」「発がん物質をさける」「放射線対策」など,がんに特有な対
策は「特殊予防」ということになります。こういう方法で,がんの発生を未然にふせ
いだりとか,からだの免疫力をあげてがん細胞が出来てもそれを抑制して発病させな
いようにするわけです。HIV感染症では 「性教育」「スタッフの養成」「差別偏見の
除去」「医療機関の充実強化」「ライフスタイルの充実」は健康増進の段階,「コン
ドームの使用」「カウンセリング」などは「特殊予防」ということになります。HIV
感染症の場合は,感染と発病のタイムラグが大きくあるので,感染者の「発病防止」
もこの段階に含まれます。つまり,「感染者の健康状態の保持」は健康増進に,「予
防治療」は特殊予防にはいるのです。
「HIV抗体検査」がどこにはいるかが実は難しいのですが,発病ではなく感染して
いるかどうかの検査ですので,次にあげる「早期発見早期予防」ではなく,ここの
「特殊予防」の段階にはいるものと思います。これには異論もあり,二次予防とする
学者もいるでしょう。
2.「発病」したあとで,なんとかするもの
これは大きく二次予防と呼んでおります。「早期発見早期治療」と「重症化防止」
の2段階あります。「がん」では,がん検診で早く見つけるのが「早期発見早期治
療」,進行がんにしないようにまたは,進行がんでもそれ以上進めないように必死に
治療する段階が「重症化防止」でして,多くの「治療」はこの段階に入ります。従っ
て,「治療」は予防の一部を形成すると考えていただければよいと思います。HIV感
染症では,おおむねARC以降の段階であると思われます。従って「早期発見早期治療」
は,発病を見わけること,すなわち感染者の医療においての的確な状況把握というこ
とになるかと思います。「重症化防止」は発病以降の治療ということになります。
3.「病気」が落ち着いて,社会に適応(リハビリテーション)するための手助けを
するもの
これを三次予防といいます。リハビリテーションと言うのは臨床的なものだけでは
なく,社会復帰のための全ての方法をいいます。二次予防の重症化防止が「キュア」
であるとすれば,多くの「ケア」の段階はここにはいると思います。「福祉」の段階
といっても良いでしょう。病気が落ち着くといいますが,その転帰が死である場合に
は,この段階は,「社会とともに生き,人間としての尊厳を回復する過程」,たとえ
ばいわゆるホスピスケアの段階と考えてよいかと思います。また,その社会復帰のた
めの基盤整備,たとえば「受容的(いい言葉ではないのですが)社会の建設」なども
ここにはいります。
「がん」の場合ですと,治療が終わって社会復帰するための諸段階,すなわち治療
の結果できてしまった障害の克服や,職場への復帰などということになります。「HIV
感染症」の場合ですと,一つにはケア体制の充実があげられますし,同時に一次予防
でもある「差別偏見の除去」などもここにも含まれます。「ボランティア活動」の多
くの部分もここにはいる(現在,「ボランティア活動」は,実際はこの全ての段階を
カバーしていますが)ことになると思います。
このように本来「予防」の概念は広いもので,しかも連続的で各々につながりのあ
るものです。従って,その一部だけを取り出した予防対策を進めても,うまく行く
はずはないのでありまして,過去の感染症対策の失敗の歴史がそれを物語っている
といえるようです。
さあ,「感染症を理解した」私たちが何をしたらいいのか,みんなでよく考えて
みませんか。それはやはり「LWA社会の実現」ではないでしょうか。
そのために何をすべきでしょうか。無知は偏見を呼び,偏見は差別を生みます。
逆に,知ることによって,意識が芽生え,行動にうつすことができるのではないでし
ょうか。まず,きちんと知ること,そして知らせること,これなら誰にでもできる
のでは?さああなたも,とりあえず,そこから始めましょう。
ICHIRO FUKUNAGA
EPIDEMIOLOGIST,PUBLIC HEALTH PHYSICIAN
KAN-ONJI PUBLIC HEALTH CENTER,KAGAWA PREFECTURE
(作成者 香川県 福永一郎)